作品紹介「彌勒 MIROKU」
彌勒 MIROKU
2013年 / 日本 /白黒+カラー / 87分 / BD
脚本・監督: 林海象
原作: 稲垣足穂
出演:永瀬正敏、土村芳、佐野史郎、近衛はな
<製作> (株)北白川派
<配給> ミロク革命社
13歳の少年・江美留とその友人たちは、自分たちの将来を夢みていた。
それぞれが夢をみつけていく中で、江美留には将来がはっきりとわからなかった。ある日、少年たちの友人の一人が自殺してしまう。その死を悼んだ少年たちは丘の上の天文台に登る。大きな望遠鏡を除く天文学者に問う「そこから何が見えるのですか?」と尋ねると、こう尋ね返される「教えてくれないか?僕たちは何処からきて、何処に行くのかを?」その答えを探す心の中は宇宙を見ていた。そして江美留は、小説家になることを夢見て、決断する。
それから数十年、青年・江美留の人生は夢とは真反対の地獄にいた。夢を持ってしまったが故の苦しみ。少年の頃に抱いた夢と決断は本当に正しかったのか?極限の生活の中で現れる鬼に問われる「おまえの目指す人間とは何か?」果たして、江美留はその答えを見つけ出すことができるのか?
公式サイト
予告編
監督プロフィール
1986年『夢みるように眠りたい』で映画監督デビュー。『私立探偵濱マイク』など数々の話題作を監督。京都造形大にて学生と共に「彌勒」を製作。革新的な映画公開に話題を呼ぶ。2014年東北芸術工科大学映像学科学科長就任。
映画祭スタッフより
映画『MIROKU』上映に寄せて
「林海象は、一体どうしたのだろう?」
林海象監督が、稲垣足穂の短編小説『弥勒』を映画化したと聞いた時、咄嗟に思ったことである。
林海象監督と言えば、1993年以降の「私立探偵 濱マイクシリーズ」で名を馳せた映画監督である。主演は永瀬正敏、横浜の「黄金(こがね)町」なる、少し裏通りに入れば一つの雑居ビルに極真空手道場と怪しいマッサージ屋なんかが混在するカオスのような街で、南原清隆演じる「情報屋 星野君」を相棒に、和製マイク・ハマーならぬ「濱マイク」が事件解決に奔走するという、ハードボイルド映画であった。マイク、星野の奇抜なファッション(マイクはド派手な“歌舞伎ジャケット”にハンチング帽がトレードマーク。星野は何故か割れ物の保護に使われる通称“プチプチ”でできたジャケットを着ているシーンがあった)にも注目が集まり、スタイリッシュに仕上がった第一作の『我が人生最悪の時』、事件の捜査はもちろんだが、長年失踪していた母が突然登場して揺れるマイクの人間性をも描いた『遥かな時代の階段を』、永瀬が探偵マイクと犯人ミッキーの一人二役を演じ、山口智子が清楚な外面とは裏腹な、残忍な実行犯を演じた『罠 THE TRAP』と、シリーズは3作続いた。青山真治や中島哲也などといった新進気鋭の若手映画監督が永瀬正敏演じる濱マイクを主役に1話ずつ制作し、日本テレビ系列のテレビ局で放送されたテレビドラマ『私立探偵 濱マイク』の元ネタ、と言って果たして通じるかどうか甚だ疑わしいが、兎に角、そこそこの映画ファンであれば「林海象=ハードボイルド」の図式を思い描いていると思って差し支えないであろう。林海象監督は、濱マイクシリーズ終了後、やはり横浜を舞台に探偵ものから一転、アニメの『キャッツ・アイ』の実写版『CAT’S EYE』でメガホンを取った。中国マフィアを始めとする裏社会に踏み込み、アニメのイメージよりもシリアスな、まるで濱マイクシリーズの世界観を思わせる“林海象版キャッツ・アイ”を残して、――――――林海象監督は、忽然と我々の前から姿を消した。
あれからすでに10年以上が経過した今、林監督が遂に復活!その作品が、『MIROKU』である。主演はやはり永瀬正敏。つまり、「濱マイク」のゴールデンコンビの復活でもある。こんなニュースを聞いて、黄金町のロケ地を訪れたことまである「濱マイクシリーズ」ファン(私のこと)の血が騒がない訳がない。
この事実は二重の意外性を含んでいる。第一に、「林海象と言えば濱マイク、濱マイクと言えば林海象」のあの林海象が、幻想的な稲垣足穂の小説を映像化したということ。そして、稲垣足穂の小説が、映像化されたという事実そのものである。
稲垣足穂と言えば、最も有名な作品は、月や星といった天体を主体に据えた、ほんの2、3行の「超・超・短編小説」とでも言うべき物語の集積からなる「一千一秒物語」であろう。ちょうど、濱マイクシリーズがヒットした時期と前後して「タルホブーム」が生まれ、忘れられた作品が再刊されたり、『一千一秒物語』が手の込んだ装丁のアートブックとして発行されたりした時期があった。誤解を恐れずに例えるならば、科学の魅力を、幻想を交え、田舎らしさをやや残しつつ童話に著したのが宮沢賢治であるとすれば、洗練しガラス細工のように無機的な小説として描いたのが稲垣足穂である。「弥勒」のあらすじは、主人公の少年・江美瑠(えみる)が友人の家で仏像の写真集を目にし、それに載っていた弥勒菩薩の写真に魅了される。弥勒菩薩とは56億7千万年後、人類が危機に瀕したときに現れる救世主と知り、これをきっかけに江美瑠は自分の将来を真剣に考え始め、小説家を目指すことになる。しかし、小説はちっとも売れず、墓地の裏手にあるうらぶれた下宿屋に住み、原稿用紙を質に入れ、居酒屋で電気ブランをあおり続けるような体たらくと成り果ててしまう。江美瑠は電気ブランの酔いと正気との間を行きつ戻りつしながら、創作のために自らの精神を更なる高み、つまり飢えや寒さを突き抜けた先の精神状態を目指すが、肉体の苦痛の前に敗北を続ける。こう聞くとまるで地獄のような生活だが、不思議と原作には悲壮感はない。学生が若いうちならではの貧乏生活を楽しんでいるかのような気楽さがそこにはある。「弥勒」に限らず、どの作品もかつての足穂人気に照らし合わせれば、とっくに映像化されていて良かったはずだ。それがなぜ今になって実現したのか。
「ハードボイルド林海象」と、「天体ファンシー稲垣足穂(こちらは、あくまで筆者の勝手なイメージだが)」の融合とはこれ如何に。2015年11月、私は首を傾げつつ、函館空港に降り立った。「函館イルミナシオン映画祭」で上映される『MIROKU』をこの目で観るためである。
が、上映前に目にしたパンフレットで、本編を観る前から、全てを悟った。『我が人生最悪の時』よりは軽い質感のモノクロ画面。そしてひしめくように建ち並んだ家々の、一見して「嘘」と分かる書割。これを目にしただけで、足穂の描いた世界が忠実に映像となっていると直感した。作品を観た感想は推して測るべし。林海象と稲垣足穂は当初の懸念を振り払うが如く、見事な融合を遂げ、いや、融合ではなく化学反応というべき進化を遂げていた。手法も実写の中に書割を置いたり、光を使った幻想的なカラー映像がモノクロのストーリーの中に差し挟まれたりと前衛的だ。「濱マイク」の頃にもいくつか実験的な映像は印象に残ったものの、林海象が幻想性を纏った映像を生み出すとは思いも寄らないことであった。
上映後、幸運にも林監督からお話を伺うことができた。「稲垣足穂作品の映像化は、これまで見たことがありませんが・・・」とこちらが話し始めると、監督自身がこの小説を読んで影響を受け、10年以上に渡り、書簡で稲垣足穂の関係者に映像化の依頼をしてきたと気さくに答えてくださった。稲垣足穂サイドは、彼の作品の映像化は不可能なものである、また、間違った解釈で世に出されては困る、という意見であった。しかし、監督の度重なる依頼に関係者からの信頼を得、この度ようやく映像化が実現したという。
世間から姿を消している間(現在もだが)、林海象監督は京都造形芸術大学で教鞭を取っており、『MIROKU』は撮影、美術、編集に至るまで、学生を動員して制作された。主人公・江美瑠の少年時代は、「女性が女性性を得る直前の、少年らしさを残した頃」の女子学生たちが、江美瑠とその友人たちを演じており、その姿には瑞々しさが溢れている。作品全体を通しての前衛性は、スタッフ、役者を始めとする学生たちの若い力が監督の情熱と相まって生み出されたのであろう。
さて、この一映画ファンを困惑させた問題作(?)『MIROKU』が、長岡の地に上陸する。説明が遅れたが、『MIROKU』はこれまで、横浜黄金町の映画館ジャック・アンド・ベティを唯一の例外として、その他は映画館への配給はしていない。どうやら配給会社を介しておらず、大々的な宣伝をしていないらしい。函館映画祭と同じ2015年には、青森市で無声版を上映した。役者のセリフはその場に映画出演者が揃い、アテレコでセリフを入れ、オーケストラの生演奏でサウンドトラックがついた。ここまでくると、もはや映画上映会というレベルを超えたアートイベントである。今回長岡でかかる音声入りのスタンダード版でさえ全国を高崎や宮崎(プラネタリウムで上映された)、山形など、単発で回っているが、その数は多くはない。滅多にお目にかかれない『MIROKU』が、長岡で、スクリーンに掛かる。これが事件でなくて何であろう。
林海象の新境地、そして、「映像化不可能」と言われた稲垣足穂小説の完璧なまでの映像化。この二つの事実を「濱マイク」ファンにも、稲垣足穂ファンにも、見逃して欲しくはない。もちろん、どちらの存在も知らないという方には尚更だ。少年時代の煌めきに満ちた、美少女が演じる江美瑠と、堕落の一途を辿る、永瀬正敏演じる青年・江美瑠との落差に愕然とし、時に江美瑠への苛立ちや落胆を感じつつも、やがては彼と共に水平線の向こうに待つ「弥勒」の境地へと誘(いざな)われる。
『MIROKU』は、「ながおか映画祭」にて上映されるとのこと。9月の「ながおか映画祭」、今から楽しみである。
(30代 女性)